紙障子にほの白く明るい雛壇の高坏に、どっしりと2つのアンパンが座っていた。
7段の緋毛氈に美々しく飾りたてられた中にあって、2つのアンパンはもうずっと昔からそこに居たような存在感を持って、小さくへこんだ2つの目でにっと笑っていた。
ひかり号東京行きのシートに、その女はアンパンの3個入った紙袋と一緒に座っていた。
さっきから心がゆらゆらして耳がほてっていた。それは3個のアンパンのせいだった。
大阪、ホテルプラザのウインドーでそのアンパンに会ったのは雛祭りの日だった。
そう「宝塚のステージ」のようなケーキのダンスの隣にパンたちは座っていた。
アンパンがその女と“ひかり”に乗ってしまったのは、その「顔の大きさ」だった。自信に溢れた顔だった。
そのパンに会ったのは、今は亜麻色のアルバムとなって閉じられている学びの時間だった。町に一軒しかないパン屋さんに、下校途中の買い食い禁止の校則を横目に、期待に小さくうねる胸を押さえながら寄ると
○グローブのようなクリームパン
○コロネ形のチョコレートパン
○ミットのようなジャムパン
と、いつも同じ顔ぶれがあった。その中で「あったかい座布団のような大きな顔で、小さくへこんだ2つの目でにっと笑っている」のはアンパンだった。
そのアンパンを長い時間かけてゆっくりと買った。それは「アンパン時間」だった。もしかしたら来るかも知れない、背の高い白線の帽子をきりっと被った金ボタンの制服を着た人と出会いたいほのかな期待だった。
ひかり号のシートに眼をとじて、その女はあの時と同じように、牛乳を飲みながらアンパンを2つに割った。ほの甘い「あん」が牛乳と一緒にとけて、ゆっくりと喉に下りて行き、綿をちぎったような細かいパンの目は、亜麻色の幾つものシーンがその中に映るようだった。
パンは、食文化の夜明けとされる古王国BC2850年〜2050年頃、人々が麦から粥を作って食することを覚えたことに始まる。この粥がある時何かのはずみでとても濃い状態に作られたと思われる。これを熱い石の上においてみたところ水分が蒸発し、焼けていわゆる最も原始的なパンになった。このすばらしい遺産は歴史の中で政治の流れと絡み合いながら大いなる発展をしてきた。(吉田菊次郎著『洋菓子の世界史』製菓実験社)
明治7年、銀座木村屋の初代社長木村英三郎がパンの中に餡を入れて発表、日本の「まんじゅう」と一味変わった不思議な味が人々に愛されて、あの丸い顔は100年の今も変わらない。
「アンパンセット」コーヒーと2個のアンパンが、銀座のキャリア女性の細い指でつままれるのも、語られる夢多きせいなのだろう。
「アンパンってお雛様にぴったしね。この家最後の雛祭りにいい感じ」18歳の娘の声を頭の遠くで聞きながら、「亜麻色の雛祭り」と小さく呟いた。アンパンを見る目が優しく遥かだった。